私たちは,「北アナトリア断層における活断層深部構造の研究」 (研究代表者 本蔵義守 東京工業大学教授)を行うために, 国際会議が開かれていた英国から 7月26日にトルコ共和国に来た. トルコ側の共同研究者は, ボアジチ (Bogazici) 大学 カンディリ (Kandilli) 観測所・ 地震研究所 (KOERI) の スタッフである.本蔵教授をはじめとする私たちの研究グループは 1980年代初めから北アナトリア断層の西部地域において共同研究をしてきた (東京工業大学と ボアジチ大学は 1998年に大学間学術交流協定を結んでいる).
北アナトリア断層は,地球表面を覆うプレートのうち,ユーラシア・プレートと アナトリア・マイクロプレートの間にある右横ずれ断層であり, トルコ共和国の北部を東西に走っている. この断層は,1939年に起きた M(マグニチュード)7.9 の エルジンジャン(Erzincan)地震を契機として, 震源を断層沿いに西へ移動しつつ,M7 クラスの地震を起こしてきた. 1992年に再び東のエルジンジャンで発生した地震を除けば, 一連の活動は1967年に起きた M7.1 のムドゥルヌ(Mudurnu)地震を 最後に止まっているかのように見えていた. つまり,その西側は地震の空白域として知られていた.
この地震空白域では北アナトリア断層が南北に分岐している.
そして,北のブランチで微小地震が多発していた.
私たちは性質の異なるこの活断層の深部構造を調べるために
広帯域(周期 0.01 〜 1000 秒)の電磁場観測を行った.
原理を簡単に説明しよう.
前述の周期での地球磁場変動は,太陽風によって運ばれたプラズマと
地球磁気圏との相互作用が原因となり,電離圏や磁気圏に流れる
電流によるものである.
地球は導体なので,地球磁場変動により地電流が誘導される.
電流の流れ方は地下の比抵抗分布に依存する.
長い周期の変動ほど深部の情報を持つ.
したがって,広帯域で電場及び磁場の観測をすることにより,
地下深部の電気的な構造を推定することができる.
低比抵抗領域は断層破砕帯などにおける地殻深部の流体(水)の
分布を反映していると考えられ,断層の活動度と地下構造との
対応が注目されるのである.
私たちの観測は予想以上に順調に進んだ. 私は 8月18日にイスタンブール(Istanbul)を発ち, 帰国する予定だったので,8月16日に,観測の基地としていた イズニック(Iznik)からイスタンブールへ移動していた.
その晩の地震だった。
朝食の準備をしていると,ようやく電気が使えるようになった. 地震発生からすでに4時間以上経っていた.テレビをつける. その映像に愕然とした. 兵庫県南部地震による阪神淡路大震災が思い出された. 瓦礫の中で救出作業が行われている. どの断層がどれだけ動いたのか? もし,南側のブランチが動いたとすれば, 大志万さん(京都大学防災研究所助教授)を はじめとするイズニックにいる仲間はどうなったことか? 音声のトルコ語はわからない. しかし,イズミット(Izmit)などの地名から 北のブランチが動いてしまったということが予想できた.
KOERI の
地球物理学研究室の建物へ行き,電子メールで日本へ連絡しようとした.
ところが,そこはまだ停電のままだった.
なすすべもなく地震学研究室へ行った.
そこでは自家発電をしており,
KOERI が設置している
地震計から地震のデータが送られてくる.
多数の余震が起こっていた.
地震波の到達時刻を読み取ることにより,各余震の震源の位置を求めることができる.
どれだけの範囲の断層が動いたのかを知ることができるので,
今後の地震活動などを知る上でも余震の分布を求めることは非常に重要である.
しかしながら,地震データはそのほとんどが
紙に描かれるだけのアナログデータであり,
用紙の交換だけでも忙しそうであった(写真).
この非常時に何らかの手伝いをしたいとも思ったが,
できることがないことが悔しかった.
イズニックにいるメンバの安否が気になる. 何とか連絡を取れないかと,アリ(Ali Pinar)さんや ムスタファ(Mustafa K. Tuncer)さんに頼んだ. 2人とも東工大に研究生として来て,2年間過ごした. 間接的には,無事らしいということがわかったが, 直接,安否を確かめることはできないままだった.
地震学研究室では,テレビなどの取材,地震データの蓄積などで混乱していた.
私たちの存在は無用のようなので,地球電磁気研究室へ行った.
日本へFAXを送りたかったが,停電のままなので使えない.
しかしながら,国際電話をかけることは可能だということがわかった.
地震の後の混乱のためだろうか,何度かけても,なかなか通じない‥‥.
ようやく日本につながった.
日本では私たちを非常に心配していたようだ.
報道されるところは、被害のひどい場所だからであろう.
連絡が遅くなったことを申し訳ないと思う.
日本にいる本蔵教授にどこにいたのか,どのくらいの揺れだったのか尋ねられた
(後日,このコメントが新聞記事になっているので驚いた).
日本と連絡を取ることができたので,ようやくこの緊急時における
私たちの役割ができたと感じた.
日本では観測隊を作って,トルコで緊急観測を行うという. 一緒にいた伊東さん(宇都宮大学助教授)に何が必要か, どのような地震計をどれくらい持ってくるべきかを尋ね, 再度,日本へ連絡する. KOERI 所長の イシカラ(Ahmet M. Isikara)さんに トルコ側の受入態勢をお願いする. たとえ単なる連絡係でも,何かをしていることで落ち着けた.
トルコでも余震の噂がすぐに広がるようだ. 12時に起きるとか,19時に起きるとか,誰が言い出すのか知らないが, 迷惑な話である. 「余震に備えて,その日の夜は屋外で寝るように」ということは テレビなどで伝えられたらしい. 実際,耐震性の弱い建物は,壁となっている煉瓦が抜けてしまい, 数階建ての建物もぺしゃんこなってしまう(パンケーキ破壊). 完全に崩壊していなくても,さらなる衝撃に耐えられなくなっている 建物があってもおかしくはない. 翌朝,空港への移動中,実際に屋外で寝ていた人たちを大勢見た.
帰国の途についたが,何となく釈然としなかった. 現地でやるべきことは多数あっただあろう. しかし,帰国後,現地の莫大な被害の様子を知り, 運が悪ければ,自分も犠牲者の一人となっていたことも実感した. 実際に,イズミット周辺でも観測を行っていたのだから.
トルコとは仲が悪かったギリシャとの関係が 両国で起きた地震を通じて,良くなってきたと聞く. たとえわずかでも災いが転じて福となることを願う. 最後に,多数の犠牲者の御冥福をお祈り致します.
21 October 1999